2023年06月03日
The 95th ASAMA MEETING
コンクールデレガンスのバイク達
浅間ミーティングも回を重ねて今年で95回、何と47年目に突入です。今回も、ここでしか見ることができないような素敵なバイク達が集まりました。でも、考えて見ると「ここでしか見ることができないような素敵なバイク」って、実は誰が乗っているどんなバイクでも、オーナーにとっては、「ここでしか見ることができないような素敵なバイク」なんですよね。クラブのホームページ(https://asama1975-org.secure-web.jp/index.html)の冒頭に「新しい車を知り 旧い車を知ろうとする人に」とあるように、決して旧車のクラブでも、旧車じゃ無いと参加出来ないクラブでもありません。なのになぜそう思われているのでしょう?
オートバイという乗り物は、新しくても古くても、維持しながら楽しむには、それなりの手間と時間がかかります。そのため、バラして見たものの、組み上げ切れていない状態で延々そのまま。なんて事になりがちです。例えば、新車買って旅に行こうと思い、パニヤケースやキャリアを買おう、または買った。とします。新品で箱に入ったまま放置になりがちですが、具体的に何月何日のフェリーを予約した。とか、宿をとってあるならば、それまでに間に合わせなきゃいけないから、がんばって取り付けよう。ってなるでしょう?
レストアラーにとっての浅間ミーティングと言うのもそれと同じなのです。それまで数十年放って置かれたものを直すのだから、あと半年やそこらは放って置いても変わらないよ。となりがちなのですが、「浅間に間に合わせなきゃ」ってのは大きなモチベーションになるんですよね。
そうしてミーティングでお披露目すると当然珍しいものが目につくわけで、メディアに出るのはそういうものばかりになるから、知らずに見ると珍しい旧車を持ってないと参加しちゃダメ。みたいな印象を持たれてしまうのかも知れません。実際はそんなことはないわけで、さも無きゃそんな旧車と呼ばれるオートバイが半年ごとに数百台も集まるわけは無いわけで、新しいバイクで参加する人も沢山いるし、馬鹿にしたりはしませんから、気楽に参加して欲しいと思います。そりゃあ最近参加者にジジババが増えて、あれやれ、これやれとうるさい奴もいるかも知れません。危なっかしくて放っておけないと思うかも知れません。そんな時、知らん顔をするか手を貸すかはあなた次第。
春に開催されるコンクール・デレガンスはノンジャンル。秋のスピリットと違って特にテーマはありません。どんなバイクでも参加出来るから、バリエーションは豊富です。
1・VINCENT RAPAIDE 1000cc 1949
Vincent Motorcycles は、1928年5月にフィリップ・ヴィンセントがHRDモータース社を買収したことから始る。
HRDは、1917年にドイツ軍に撃墜され捕虜となった英国王立飛行(RFC)のパイロット、ハワード・レイモンド・デイヴィス(HRDね)によって設立されました。捕虜になっている間に、自分のバイクを作ることを思いつき、それを実現する方法を考えたという伝説が残っています。1924年にHRDモーターズとして活動開始。レースで勝利を収めたものの、会社は赤字。1928年1月、同社は自主的に清算を開始、ハンフリーズ社に売却されるものの、ヴィンセントは、アルゼンチンでの牧畜で得た家財を背景に、1928年にハンフリーズ社からHRDの商標、営業権、残存部品を450ポンドで取得しました。
その後いろいろあったものの、1955年に活動を終了、でもラパイド、ブラックシャッドウ、と言う当時最速のVツインを生み出します。
40年ほど前に生まれて初めてこのエンジンを見た時、その美しさに圧倒された事を覚えています。「配管工の悪夢」と言われた初期型に比べれば、大分すっきりしたとはいえ、まだまだ複雑なオイルラインに囲まれたエンジン。フリクションダンパーに固められたカンチレバータイプのリアサスペンション。こだわりのガーダーフォークにはダブルパネルのドラムブレーキ。ワイヤー制御のブレーキ、タイミングレバー、チョークレバー、デコンプレバー、クラッチレバーをすべて納めたハンドルバー。すべて直線で、調整が必要な所はすべて手でで操作できるよう作られたアジャスター類。全く考えていないようできちんと収まっている補機類。当時世界最速のV2です。
「儀式」を経て始動される後ろ姿についている比較的新しいナンバープレートが輝きます。車検通すの大変だったろうなあ。
2・陸王モーターサイクルRQ 750cc 1953年
戦前から日本で大型オートバイの代名詞だった陸王。帝国陸軍の正式採用モデルだったのですが、その分開発が進まず、しつこくサイドバルブにこだわります。この、RQは、戦後初モデルROの改良型。陸王の代表的なモデルで、現存数もわりと多いといわれています。でも、サイドバルブ750 ccで、変わらぬ22馬力。手動進角、手動油圧ポンプ。前進3段ハンドシフト、フットクラッチは変わらず。この、戦前のハーレーから引き継がれた独特の操作系から、「陸王は乗りこなすだけで難しい。」と言われ、ビジネスとしては成功していません。
どのくらい面倒くさいかというと、進角レバーを操作した上で、シート横のオイルポンプをコキコキやってオイルを送り込んでチョークを締めてキック。一発でかかればOKだけどかかるまで繰り返し、暖気が済むまでチョークと進角を合わせてスタート。でも走っている最中に時々オイルポンプの所に手を突っ込んで送り込んでやらないとオイル切れのまま走ることになる。と言う面倒くささ。売れなかったと言うよりむしろよく買う奴がいたもんだ。ホンダはドリーム3E、ベンリイJ、ヤマハのYA-1が1954年ですから。
3・ホンダ ベンリイJB 124cc 1955年
ドリームE、カブFに続くホンダの新シリーズとして1953年に発売されたベンリイJですが、1958年頃には、名称にルールが出来て、50ccクラスをカブ、51cc〜125ccクラスをベンリイ、126cc〜200ccクラスがホンダ、201cc以上をドリームと呼ぶことにしたはずなんだけど、その後名前がカブって煩わしいだの何だのと色々言われたあげくに、カブはカブタイプ全般、50〜150のイエロー&ピンクナンバーがベンリイ、250〜をドリームとなったのが1960年頃。でも750が出たあたりから、350だ450だ500だと大排気量化が進み、ルールに従えばドリームだらけと、もう訳がわからなくなって名前分けは消滅します。
話を戻して1953年に発売されたのがベンリイJ型。90ccOHVで3.8ps。見た目の特徴は、レバーの支点が外側に来るオポジット型。ドライブチェーンも右側になってます。最大の特徴はエンジンがフレームじゃ無くてスイングアームに着いてありシーソー式に動かして振動軽減を図ったのですが、これがあだとなってオイルがかき回されてオーバーヒートしがち。フレームも荷重1点集中と言うことのデメリットも多かったそうです。そして1955年に125ccになったのがこのJB
同じ水戸っぽには懐かしいナンバーが付いています。特徴的なスイングアームにご注目。次のJCからエンジンはフレームマウントになりますが、フロントがアールズフォークになります。
支えてもらってまたがる姿は、大丈夫かいな?と思わせるものの、走り出しちまえばこっちのものよとばかりの水戸藩のじっちゃん。御年88歳。バイクの方が20歳も若い!
4・丸正自動車工業 ライラックLS-18(Modified) 250cc 1959年
V型2気筒モデルのLS18が登場したのは1959年です。(今年2009年は初期型が登場して50年です)
このV型2気筒は縦置き66度で電気式スターター(セルダイ)を装備していました。(125ccモデルの1部は90度)
トランスミッションはロータリーパターンの4速で最終減速は当然のことながらシャフトドライブです。
250ccVツインモデルには、スタンダードモデルのLS18型と、ツーリングモデルのLS38型があり、
それぞれに排気量を300ccにアップしたMF19型とMF39型があります。V型2気筒を縦置きし、ロータリーパターンの4速ギアとの組み合わせたシャフトドライブです。LS18は250ccのスタンダードモデル。製造時期によって1,2,3型がありますが、途中に倒産を挟んでいる為に、余った部品を寄せ集めて作られたハイブリッド仕様もあったそうです。非常に高性能ですリークなデザインのバイクを作る会社だったのですが、そんな理由でオリジナルの部品は手に入りにいので、オリジナルのテイストを残して現代の部品を組み合わせたり、作ったりして仕上げたのがこの車体。特にスイングアームのピボットからフレーム、シートのリベットが一直線に並ぶあたりは格好良いですよね。
ライラックらしいスムースでジェントルな排気音を奏でて場内を2周してくれました。
5・昌和製作所 ライトクルーザーSL 浅間レーサー 125cc 1959年
この車を語るには、浅間火山レースについて、またなぜ浅間ミーティングが、北軽井沢の地で開催され続けているのか。という事も語らなければいけません。
第二次世界大戦によって空白が生じてしまった日本のオートバイ産業でしたが、2輪車の生産については4輪車にくらべて制限が緩かったこともあり、敗戦から1年後の1946年には進駐軍の軍用スクーターに触発された国産スクーターのラビットS1が完成し、自転車に取り付ける補助エンジン(スーパーが付かないホンダカブ)も飛ぶように売れました。
1949年に2輪車を製造するメーカーや販売業者によって日本小型自動車工業会(小自工)が設立され、小自工主催により戦前の日本では唯一の常設レース場(オーバルのダートコース)だった多摩川スピードウェイで戦後初のレース、全日本モーターサイクル選手権大会、通称「多摩川レース」が開催されます。130台の参加台数と2万人以上の観客を集めたこのイベントは、オートバイ業界から行政への規制緩和を求めるアピールの意味合いが強いものでしたが、こうした動きにも助けられて二輪車業界は活気づき、一時はオートバイメーカーが150社を超えるという盛況を迎えます。
一方で駐留軍のアメリカ兵が持ち込んだBMWやトライアンフといった外国製オートバイと日本製オートバイの圧倒的な性能差も明らかになってきます。オートバイ産業を重要視した政府は、オートバイ生産に対する補助や輸入車への高関税などにより国産オートバイに対する保護策をとり、その一環として1951年には通産省の主導による東京〜神戸700キロ耐久テストが行われます、さらに多摩川レースの成功もあって、乱立していたメーカーの間にも手っ取り早く自社のオートバイの性能を世間に認めてもらう手段としてのレースの有効性が認知され、日本でもマン島TTレースのようなレースを開催するという機運が高まっていきます。そんな中で1953年の3月には愛知・岐阜・三重を舞台に全日本選抜優良軽オートバイ旅行賞パレード(通称「名古屋TTレース」)、7月には第1回富士登山軽オートバイ競争大会(通称「富士登山レース」)、11月にはオートバイによる駅伝とも言うべき都道府県青年団対抗・日本縦断オートバイ耐久継走大会が開催されたりします。中でも富士登山レースは地元(富士宮市)の観光協会主催であり、他のレースのようなオートバイ業界団体による主催ではなかったために個人で参加できるレースとして盛り上がりを見せ、1956年の第4回まで開催される大きなイベントとなります。1954年には、本田宗一郎がブラジルのレースにオートバイを遠征させて完走し、3月にマン島TTレース出場宣言を発表して世間を驚かせます。
そんな状況にあって、国産オートバイの性能向上に自信を持ち始めた二輪業界も、もっと本格的なロードレースを開催しようという声が大きくなり、岩手県盛岡市郊外、東京都青梅市周辺、山中湖周辺などのいくつかの開催地案の中から浅間山麓周辺が開催候補地となり、地元の有力者である三代目星野嘉助の協力もあって群馬県や警察の認可を得ることができて、1955年、第1回全本本オートバイ耐久ロードレース、(通称;第1回浅間高原(火山)レース)が開催されることになります。
1955年の第1回は、マン島TTにならって(と言っても全コースダートですが)完全な公道を使用したレースとして開催されます。そのときのスタート&フィニッシュ地点が国道146号線の「北軽井沢」交差点、中軽井沢から登ってくると、左側にコンビニが数検並んだ交差点で、コンビニの駐車場には「浅間高原レース発祥の地」という碑が建っています。
その後、やっぱりダートの公道でレースをやるのは、地元への影響が大きいということで、浅間牧場内に専用コース「浅間高原自動車テストコース」が作られます。ミーティングに参加される方は、国道146号線から、誘導に従って会場のプレジデントリゾートへ右折する訳ですが、そこから少し先の左側にミエス牧草地が浅間牧場。道路からら柵を隔てたすぐ先に、当時のスタート&フィニッシュ地点と当時のコースが残っています。古手の会員さんは帯終えていらっしゃると思いますが、1度コースを使ったミーティングが実施されたことがあり、北野元さんをお迎えしてみんなでコースの一部を走ったことがあるのを覚えていらっしゃると思います。
その後、コースの舗装計画はあったものの、各メーカーが独自の開発用コースを持つようになり、1962年には鈴鹿がオープンされ、浅間のレースは1959年の第3回を最後に、開催されることは無くなりました。
浅間ミーティングは、浅間のレースには縁がある星野温泉(現星野リゾート)で始まり、その後北軽井沢のハイロングラウンド、マウンテン牧場をへて現在は、プレジデントリゾートで開催されていますが、そこに至るまでには様々なドラマがありました。それについては、また別の機会にご紹介させていただきます。最後に浅間豆知識を1つ。現在の浅間記念館の入り口ゲートになっている「シェル」の給油ポンプ。2つある内の1つは、江戸川河口にあるパワーボート屋さんに寄付していただいたもの。それを塗り直しているのを見た北軽井沢在住の方が、「同じものが家で焼却炉になってるよ」というので、見てみたらなんと実際に浅間火山灰レースで使用されていた物とわかり、一緒にレストアして揃って展示館を守ってくれています。
さて、やっとバイクの話に戻ります。写真の昌和クルーザーは第3回のレースでウルトラライトクラスに実際に出走したもの。残念ながらレースでは出走3台すべてリタイヤしますが、101号車のライダーはなんとあの川合稔。優勝はワークスRC142を3台従えて、SS92の北野元と、その後の日本のレース界を引っ張っていくそうそうたるメンバーが名を連ねています。
昌和製作所は元々大陸向けの二輪車ディーラーとしてスタートしますが、エンジン製造をメグロに委託。静岡の沼津で生産していました。戦後メグロから離れて1950年代には2ストロークのクルーザーシリーズで好評を得ます。その後M&Aにより4ストロークエンジンの製造技術を取得。4輪を作ったりも始めますが、経営が悪化。1960年にはヤマハの傘下となり現在に至ります。
ヤマハに吸収されてからの昌和製作所製の傑作は、なんと言ってもXS650でしょうが、M&Aで手に入れた技術を生かせたのが、自身がM&Aにより吸収された先であったというのはちょっと皮肉な話です。現在はヤマハの一部門としてゴルフカートなんかを作ってます。
この浅間レーサー、ライトクルーザーと言う名称になってますが、市販車とは全くの別物。量産タイプはバックボーンフレーム、クランクケースの形状も違います。
フレームにバンパー形状の膨らみがあったり、オフロードタイヤが付いていたりするのは、前述の通り全コースダートだったから。それでもマン島レーサーを目指していたため、セパハンにダートタイヤという不思議な構造になった。ライダーはさぞや怖かったろうけれど、結果としてこの構成が、フレームやエンジン開発を飛躍的に進歩させることになるから世の中面白い。
このカウル、本来ならアルミの叩き出しなのだが、消失していたためFRPで作成、エイジング塗装で再現したもの。その話を聞いた某会員が「言ってくれれば俺が叩き出して作ったのに。」と言ったとか言わないとか。
当然押し掛けとなるわけですが、直管。車検があるわけでも無いから、ちょくちょく始動して調整も大変でしょうが、ちょっとぐずりはしたものの、綺麗な音を響かせて会場を走ってくれました。
6・モトグッチ LODOLAS GT 235cc 1959年
Moto Guzzi最初の 175cc ロドラは、45度傾斜シリンダーという、それまでのMoto Guzziと大きく違うレイアウトで発売されました。Moto Guzzi は Lodola がストリート バージョンとダート バージョンの両方でスマッシュ ヒットになると信じて30,000 台を生産する組立ラインを設置しましたが、他モデルと共用できる部品が殆ど無い上に、コアなファンにとってMoto Guzziと言えば、ファルコーネに代表される水平シリンダーにベーコンスライサー。こんなバイクはGuzziじゃねえ!と受け入れられず、当初見込んだ売上の3分の1にしかなりませんでした。じゃあコンペディションでは?となるのですが。オリジナルでは力不足と考えたMoto GuzziはOHVヘッドに換装。排気量を235ccにアップ。 デロルトのキャブ等を備えて出力を強化します。それでもイタリア国内のメーカー協定もあって、ロードレースには出ないことになりましたが、当時オフロードバイクが売れていたため、オフロードレースに切り替えたら大成功、常に信頼性を重視し、ロングトラベルのサスペンション、高いハンドルバー、マッドガード、こぶのあるタイヤの組み合わせ、80台のワークスレプリカを作成、1961、1962 年、1963 年、と国際6日間トライアルで連続優勝。
その後発売される新しい250エンジンは、カルロ・グッツィが完全にプライベートライフに引退する前に設計した最後のバイクでした。カルロ・グッツィは1964年に亡くなり、カルロが亡くなった後、Moto Guzziは様々な経過を経て、現在はピアジオの一部となっています。
ドライサンプのオイルタンクが小さいため、停止状態で放置しておくと空になりオイル無しになってしまうのでチェックバルブを増設。ただし始動後はバルブを閉めてやらないと、やっぱりオイル無しになってしまうので、戒めのためにバルブにキーを吊しておく。というオーナーさんらしい配慮です。
7・ホンダスポーツカブ CA110 55cc 1963年
ホンダ初の50ccスポーツ。スポーツカブ。1959年頃には、ホンダのベンリイスーパースポーツCB92(15万5000円)やヤマハのYDS-1(18万5000円)など、125〜250ccクラスのスポーツバイクが人気だったんだけど、高かった。当時売れまくっていた50ccクラスのユーザーから、5〜6万円の安価なスポーツバイクを出してくれ。と言う声が大きくなっていく中、1960年に国内初の50ccスポーツバイクとして発売された、タスは、4ps/7000rpmの高出力と85km/hの最高速を発揮。同様に2ストを採用したトーハツランペットも4ps/6500rpm、75km/hと現代でも通用しそうなスペックで発売され、それらに対抗するため、ホンダは4ストエンジンで高性能を持ったスポーツカブC110を発売。と言うのが歴史だけれど、このスポカブ、実用性を考えて55ccかして黄色いナンバーにはなってますが、これは普通にみんながやること。それよりもこのバイクなんか光ってません?実は米国の有料販売店に配られた非売品のフルメッキバージョンなのです。だから、あっちこっちビカビカというわけ。何がどういう経緯で日本にあるのかわかりませんが、とってもレアもののスポカブでした。
8・ホンダ ベンリイ C92(C95モディファイVer) 154cc
JBの項でもふれましたが、「ベンリイ」というのは、当時のホンダの50cc〜150ccの名称。125のC92、150のC95。この車体は、C95モディファイという事なので、92を150cc化したよって事なのでしょう。販売当時は92も95併売で、カタログも併記です。現代のルールだと高速を走れるというメリットはありますが、当時はレースのクラス分けもあって125が主流。スポーツモデルとして有名な最初のCBであるCB92(当時は受注生産)におされがちですが、実はCB95と言うモデルも存在しました。特徴的なのはフロントサスの上下動を効果的におさえる機械式の機能を内蔵したボトムリンク式サスペンション。(なのになぜかアップフェンダー)。1966年にCD125にフルモデルチェンジされます。
9・BSA A65 スピットファイア Mk4 650cc 1967年
A10ゴールデンフラッシュの後継車として発売されたA65スピットファイア。最大の特徴は、ミッションが一体化されたエンジン。ハイコンプレッション化と大径キャブで最高速度198km/h(123mile/hと言うべきか?)と言うスーパースポーツです。電装12V化も何気に嬉しい改良点ですね。
ところで、「スピットファイア」という名称。なぜか英国人は大好きで、2輪にも、4輪にも、戦闘機にも、ビールにも、曲名にもある。何故なんでしょうね?元は「ヒステリー女」って感じの意味なのですが。
10・ホンダ モンキー 49cc 2002年
おじさん世代なら1度はふれたことのあるモンキー。1961年のモーターショウでデビューして以来、2017年まで生産されたバリエーションは、メーカー仕様だけでざっと数えて25種類(ゴリラをのぞき)。と、スーパーカブにつぐロングセラーで、カラバリは日本製で最も多いんです。エンジンは一貫してスーパーカブ用の50cc短気筒。一番最初のZ100は、ホンダがやってた遊園地「多摩テック」で遊具として作られたもので、前後ともリジット。それを公道走行対応としたCZ100が海外発売されたのが1964年。(現在記念館に展示中です)モンキーの名で国内販売が開始されたのが1967年。名前の由来は諸説あって、ライディングスタイルがお猿さんみたいだからだの、多摩テックの横の野猿街道で走行テストやったからだだの色々ありますが、本当の所は誰も知らない。
元々は前後リジットですが、その後フロントにサスが付いたり(Z50A)、リアがスイングアームになったり(Z50Z)進化を続けつつ2017年に125にバトンタッチされます。よく、「フロントのオイルシール破けてるよ!」なんて言われますが、あそこにはオイル入ってなく、グリス塗ってあるだけなので、破けようがなかったりします。その後も色々進化を続けますが、ミニバイクレースの流行に伴い、様々な社外キットが売りに出され、84ccのボアアップキットを組み込んだり、SS50のアルミシリンダーに5速ミッションを組み込んだりと、手軽なチューニングベースとしても人気でした。
以前ミーティングで会員さんのお嬢さん(当時免許無しの学生さん)が私の持っていたモンキーに惚れ込んで、私と親を説得し、持っていったことがあったけど、今もお元気なのでしょうか?
さて、今回のデレガンスはここまで、秋のスピリットはテーマがありますが、春のデレガンスは、全くのノンジャンル。普段乗ってるバイクをみんなに見せるチャンスです。あなたも参加して見ませんか?